これからさまざまな場面で『三重県産の木』の
普及に努めて行きたいと思います。
私はもっと身近な『伊賀産の木』の流通が
今以上に活性化すれば
こんなに素晴らしいことはないと思っております。
いろいろアイデアを出してゆきたいです。
伊賀市、名張市のリフォーム会社 山のめぐみ舎 スタッフブログ
伊賀市 名張市 のリフォームなら 山のめぐみ舎
by yama-megumi
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ちょうど東京オリンピックの年に私は生まれました。
育ったところは愛知県の岡崎市です。こじんまりした城下町でしたが
当時、発展著しかったトヨタ自動車がとなりの豊田市に
ありましたので、人口も年々膨らんできていました。
里山を切り崩し、田んぼや畑を埋め立て宅地開発や工場用地の
造成がさかんに行われていた時期だったのです。
父親はトヨタ自動車に勤めておりましたし、母親は私と年子の弟の二人
の子育てをしながら近くの高校の非常勤講師をしていました。
父親が念願のマイホームを建てたのは、私が幼稚園に上がる前ですから
4歳くらいだったと思います。
造成されたばかりの住宅団地でしたから、周りには昔からある農家が
ポツリポツリとあるくらいだったと思います。何度となく、父に
連れられて工事中も現場を見に行きました。
大工という仕事をしている人にそのとき初めて会いました。
第一印象は決してよいものでなっかたです。
真っ黒に日焼けしてて、顔は汗まみれで木屑だらけのちょっと
キタナらしい人たち。
ときどき大声で怒鳴ったりしているコワそうな人たち。
40年前の当時の住宅で使われていた新建材といえば、アルミサッシとか
部屋の天井や壁や床板などの仕上げに使われる材料が中心でした。
さまざまな種類のものがだんだんと出始めた頃だと思います。
当時は、仕事の効率化とデザインの欧米化(モダン化)が課題でした。
現場の大工さんも新しい材料や施工方法に戸惑いながら試行錯誤の
日々だったと思われます。
それでも一番大工さんらしい仕事、つまり大工さんしかできない仕事
はまだ残っていたのでみなさん誇りを持って仕事をしていたと思います。
ここでお話している「大工らしい仕事」とは実際に現場で建てはじめる
前の「下準備」のことです。
それはいったいどんな作業でしょうか。
この話題については次の機会にお話ししましょう。
話を元に戻しましょう。
何回か通っているうちに少しずつだけどかたちが出来てきますから、
子供ごころには「こんな大きなものつくっちゃうなんてすごい!」
と単純に感動してしまいますね。造っている過程を目のあたりにすると人の
心は動いてしまうのですね。
私も当時4歳でしたが強烈な一撃でした。
その証拠に今でもその棟梁の顔や声は鮮明に思い出せるのです。
自分でも不思議ですがよっぽど印象に残ったのでしょうね。
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私自身の人生を子供のときから振り返っています。
つまりわたし神保健一の『人生の棚卸し』です。
なりたい将来の自分があります。
そこに到達するために改めなければ
ならない行動パターン、思考パターンがあります。
それをあらいざらい出してしまおう、ということです。
弱い自分、卑怯な自分、情けない自分、恥ずかしかった自分・・・
そしてどんなことに悩み、不安がり、落胆し、挫折し、諦めてしまったのか。
その時の気持ちや対処方法はどうだったのか、
相談相手は居たのか、自分で解決できたのか。
その時こみ上げてきた自分の気持ちと、どう折り合いをつけたのか。
私のすべてを吐き出したい。脳みそがスカスカになるまで。
小学生の時、中学、高校生の時、大学時代、20代、30代
それぞれの時代に
夢中になっていたことは何だったか。
それをやっていて何を感じ、何を考えていたのか。
好きな分野、得意な分野は何だったのか?。
記憶の中に埋もれている
本当の自分に会って将来の方向性をくっきりと明確にしたい。
好きなこと、365日飽きないこと、
たとえ儲からなくてもいいと思えること、
それが誰かの困りごとや悩みごと不安を解消するために
少しでも役に立てるのなら、こんなに嬉しいことはないでしょう。
自分と家族そして自分を取り巻くこの町の人たちの将来を目の前に
はっきりビジュアライズ出来るようにしよう。
ただしここで言う将来とは心の底からほしい、
命と引き換えてもそうなりたいと思っているもの
であること。
120パーセントハッピーな将来がイメージできたなら、次はそこへ上る
緩やかな階段を設定してあげましょう。
一段ずつ無理のない目標設定と期限をきって、確実に階段を上っていきましょう。
0から1へ行くことができれば、
1から1000はそれほど難しいことではないと言いますね。
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遠く離れた地の不動産情報を
自分の条件と比較して候補を
選び出す作業ほどwebの
恩恵を感じたことは
なかったかもしれません。
親切なサイトになると物件ごとに
詳細な写真がついているので、
大まかな比較検討がそこで出来てしまうのです。
候補が絞れたら現地に出向いて見学会です。
年末休みを利用してはるばる行きました。
一日一社で三、四件回りました。
市や県をまたいで
あっちこっち点在しているので
それほど多くは回れません。
結局2日間で二社、合計八件
みることができました。
初日、奈良県の山深い集落に
いったときの話です。
とてもこじんまりとしていて、
静かで美しい山々に
囲まれた村でした。
そこの環境はバツグンなのです。
まさに私たちが横浜で思い描いていた
「理想の田舎」という感じでした。
幹線道路から脇道に折れてある
集落に入ってきました。
山の斜面に民家が寄り添う、
桜並木の見事な風情のあるところでした。
不動産屋さんの案内で現場に着き、
一通り家を見させて
もらった後、モヤモヤと
頭に浮かんできたものは私自身、
思ってもみなかったことでした。
わくわくとした期待感ではなく、
くらーぃ不安感でした。
自分でもショックでした。
ここに実際に住んでいることを
想像しながら沸いてきた
一番最初の感情が、
「やっていけるかな・・・?」
「たいへんそうだな。」
「なんかちょっと違うな。」
でした。
子供の学校までの通学時間とか、
仕事がある町までの距離などが
引っかかったのです。
旅などで「訪れて楽しい田舎」と
想像していた
「生活して楽しそうな田舎」を
ごちゃ混ぜに考えてしまっていたのです。
この最初のインスピレーションは
とても大事にしています。
将来、生活していていろんな場面で
嫌な事があったり
めげそうになった時、
立ち直る時間を縮めてくれるかあるいは
引き伸ばしてしまうか
どちらかに強く影響を及ぼすからです。
そのインスピレーションで
いちばんよかったのが今
住んでいる所ということです。
「それほど町にも遠くないし、何とかなりそうだな」
「ここなら楽しい生活が送れそうだ」
「子供たちも安全に伸び伸び育つであろう」
といった
ワクワクと希望に満ち溢れた
気持ちをもっとも持てた場所
を選んだのです。
築三十五年の我が家です
by yama-megumi
横浜へのこだわりを捨てた途端、それまでの悩みが吹っ飛び
頭の中は急にクリアになりました。
まず引越しの日取りを決めました。2009年3月末にしました。
次男坊がこんど小学校に上がるからでした。
とっても都合のよい理由でした。
これがなかったらまたずるずると悶々とした日々を
あと何年も、あるいはずーと過ごしていたのかもしれないのです。
次に場所です。
どこへ引っ越すのか。とにかく決まっていたのは『自然豊かな所』
これだけ。実に単純です。アバウト過ぎ、ですね。
三重県という場所は簡単に決まりました。というのも
私たち夫婦の実家(私が愛知で嫁さんが大阪)の
中間地点であるということで、まるく収まりました。
その次の選択肢ですが、海側なのか山側なのか、ということでした。
これは好みの問題になってきます。やはり夫婦で意見が分かれました。
女房が海で私が山です。
「中古の民家でそこそこ土地の広さがあって、学校に近い物件」で
もちろん予算も限られています。
本格的に三重の物件を探しはじめたのが、
2008年の11月頃だったと思います。
さっきの条件でヒットする物件はあまりにも少なかったです。
三重県と奈良県の一部で検索して十件あったか、なかったか
という感じでした。
ネットにながれている情報はまだまだ少ないのでしょうか。
海か山か、なんて言ってるどころではなかったということです。
正月休みを使って実際に見学に行きました。
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よく言われるのですが,
「縁もゆかりもないこの土地によくきましたね。
なんでここ(三重県伊賀市)だったの?
何が決め手だったの?」と。
そのあたりの経緯を少しお話したいと思います。
私たち夫婦が、都会のゴチャゴチャした場所にずーと住むのはヤダなと、
まず思いました。
まして育ちざかりの子供たちにはもっとのび伸びした環境で、
個性を伸ばしてやりたいと思ってました。
漠然とですが、「田舎に暮らせたらいいな」と思っていたのです。
その気持ちをグッと後押ししてくれた出来事がありました。
2008年の正月、私はその年の目標を決めました。
そっと心の中にでしたが・・・。
「今年こそ家を買おう。30年ローンでも仕方ないよな。
みんなそうやって家族のためにがんばっているんだよな。
幸いオレの仕事には定年がないし。」
この時点では当時住んでいた横浜市で「中古住宅で手ごろ値段の物件」を探していました。
というのも長男が小学校三年で仲のよい友達たくさん出来てきたのでまずその学区内を考えました。
そこは横浜市のなかでも、のどかな田園風景が見られる地域でしたし、
比較的安い物件がある所でした。
私にとっても20年近く住んでいる土地ですから仕事仲間や取引先など、
なににも変えがたい仕事上の財産は豊富にそこにありました。
・・・・
不動産屋さんで探せば探すほど、
自分たちの足で走り回って実際に物件目で見て、
部屋の中に入って五感で感じれば感じるほど、
現実の厳しさといいますか、
夢に見ていた理想との
ギャップの大きさ突きつけられるだけでした。
そうです。高いんです。手が届かないのです。
まったくもって・・・とてもじゃないけど、・・・買えない。
建物は自分でどうにかするとしてもです。
土地がホント『話にならない』ぐらい高いのです。
庭のない土地で我慢しようか、いや我慢できるのか、
ほんとにこれでいいのか、
狭い部屋で、本当にこれからずーと暮らしていくのか、
それでほんとうに幸せになれるのか、
後悔だけはしたくない。
納得できる答えがほしかった。毎週のように物件を見に出かけました。
そして何日も、何日も、何ヶ月も悩み続けました。
「横浜を諦める」
そう結論を出したのが2008年の秋でした。
どうしてもそこに居なければならない理由はなかったからです。
本当に一生住みたい所でなかったということです。